2014年2月5日
Lamp 7thアルバム『ゆめ』リリース



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生い立ちからバンド結成、
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NHK戦争証言アーカイブス
水木しげるの『コミック昭和史』を再読して以来、「太平洋戦争」に興味を持ち、ここしばらく太平洋戦争関連の情報をネット上で調べたり探したりしていたのですが、
(多分有名だと思うのですが)「NHK戦争証言アーカイブス」というNHK運営のサイトを見つけました。


兵隊として戦争体験をしたおじいさんを中心に、様々な形で戦争を体験した多くの方々が、当時のことを思い出し、実体験を語ってくれています。
制作サイドが、それらの証言を(いつでも誰でも見られるように)このホームページにまとめています。
僕はテレビ事情に物凄く疎いので知らなかったのですが、テレビで放映されたものがここにまとめられているようです。


まだ全てを見ていないのですが、

僕が特に興味深かったのは、

水木しげるの漫画で有名な、全員玉砕したとされながら「生き残ってしまった」ニューブリテン島ズンゲン支隊の兵士たちの話し。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210041_00000

漫画で描かれていたことがもっと現実的に感じられました。水木しげる本人も戦争体験者の一人として登場します。



また、戦況悪化に伴い、食料・弾薬等の補給路が絶たれ、日本軍同士敵対し合うようになってしまった太平洋上の小さな島、ミレー島の話し。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210035_00000

戦地はどこも悲惨ですが、餓死する人が続出したところの話しは、特に悲惨です。



同じ戦争体験者でも、それぞれ「戦争」や「生きる」ということに対し、色んな感じ方があるんだなと考えさせられた、東部ニューギニアに送られた宇都宮歩兵第239連隊の方々の話しも非常に印象的でした。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210027_00000




また、「恥ずかしながら帰ってまいりました」で有名な横井庄一さんのように、戦後多くの残留日本兵(日本の敗戦を知らずに何年もジャングルに隠れて過ごしていた兵隊)を生んだグアム島の話しも興味深かったです。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/bangumi/movie.cgi?das_id=D0001210058_00000

早い時期に司令官を失った日本軍の兵士が、島の中でバラバラになって、それぞれがグループを形成し生き延びていくくだりは何とも言えないものがあります。


興味ある方は、お時間あるときにでも見てみてください。

| culture | 00:45 | - | - |
オリジナリティという二義的な問題について
昨日の話題の続きみたいな感じですが、内容が少し変わります。

僕が、模倣行為に対して比較的寛大な考えを示すのは、昨日書いたような部分とはまた別のところにも理由があります。

昨日、「各人にそれぞれの作品に対する気持ちがある」と書いた理由の一つに、真似をした人の気持ちがどんなものか考えてみてください、ということがあります。


普通、「如何に人と違うものを作るか」とか「如何にオリジナリティを持たせるか」という部分に一番一生懸命になるわけではないですか。作る人って。
僕もそうですが。

人の真似をして作っても全然心がすっきりしないというか、作ったものが偶然でも何かに似ていたら、自分がいったい何をやったのか整理がつかなくなるというか。

自分の作ったものにオリジナリティを感じたときに、初めて納得すると思うんですよ。作ったものに対して。
納得するというのは、自分自身に創作したことの正当性をもたせることが出来る、ということですね(創作活動を継続するにあたって、も含め)。

だから、誰も人の真似をしようなんていう気持ちで作品を作らないと思うんですよ。

さらにいえば、例えそういう人がいたとしても、一番苦しんでいるのは真似をされた人ではなくて、真似をした人だと思うんです。

だから僕はわざわざ訴える必要があるのかなぁと思うんです。

訴えるということに関して、もう一つ思うのは、
その真似された人が、「何をどれくらい模倣しているのか」本人が一番知っていると思うんですが、そのことと自分が真似されたことを心の中で比べてみてほしいんです。
それでも訴えようと思いますか、と聞きたいです。
「お前は模倣の仕方が下手くそだから訴えてやる」と言っているようではありませんか。

芸術作品に知的財産権―それを所有・独占する権利―を認めるべきなのでしょうか。



「如何に真似に思われないかを考えて作る」

これをそのまま受け入れられる人はどれくらいいるでしょうか。


果たして、これを実行することが創作において正しいやり方なのかどうか、僕にはわかりません。
(「正しさ」とか話しちゃうと、収拾がつかなくなりますが。)
どちらを選ぼうとも、これが創作の一つの壁であることは間違いないと思います。

「如何に真似に思われないかを考えて作る(オリジナリティの追求)」よりも「自分が良いと思うものを作る」方がよほど素直な感情に思えますね。

最後に、
僕はといいますと、
オリジナリティという相対的な部分と、直感的な良さという絶対的な部分が自分の上のほうでパッと結びついたときに、納得できることが多く、最近ではそれをひたすら待つことにしております。
しかし、そういう自分の考えにも歪みを感じずにはいられないのです。
| culture | 00:39 | - | - |
似ている絵っていっても別の絵です
今回の2つの酷似している絵画の事件は、「芸術の意義」や「芸術の創造性」、「創作することの意義」などについて、とても考えさせられますね。

この事件の結末とは別のところで、これらについて少し考えてみたいと思います。


まず、何かを真似することはなんら否定されるべきことではありません。実際、一切、模倣行為をしていない人なんていません。
以前このダイアリーで(たしか)書いた「創造は既知の何かと既知の何かの組み合わせでしか生まれない」ということ、このことが否定されない限りは真の創造(無からの創造)はないことになります。

僕は、むしろ、さも自分が無から独創したかのように模倣行為自体を否定したりする人や、そういった風潮を生み出す世の中の方に、歪みを感じてしまいます。

重要なのは、模倣の先にあるものでしょう。
つまり、結果(=出来上がった作品)です。

「その結果に心を動かされた人がいるならば、その作品は立派に一つの役目を果たしたわけです。」

と言いたいところですが、
このセリフをいう前に考えなければならないのは、作品の存在意義ですね。作品の「役目」って何ですか、となります。
芸術作品って何のためにあるのでしょうか。
作者のためでしょうか。それを享受する者のためでしょうか。その作品自体のためにあるのでしょうか。

実はここにはっきりした答えはありません。
これは、人生の意義に繋がっていきますが、そもそも人や作品の存在に意義なんていうものはないというのが、今の僕の考えです。
「なにかのために存在する」というのは人が頭の中で勝手に考え出したものだと思います。

人はなぜ芸術作品を作るのか。
答えはいくら探しても見つからないと思います。
でも答えを見つけたほうがずっと楽なので、見つけたつもりになっている人もたくさんいます。
僕もその一人です。

そうでもしないと、辛くてとてもやりきれないんですね。
生きることや作ることが。

何かしらの答えを見つけたつもりになって、自分を正当化しないと。


それにしても、個人の知的財産権、こと芸術作品に関しては、
声を大にして守るべきものかどうかちょっと疑問ですね。
「盗作」がなぜ駄目か。
「盗作」は何に対して悪なのか。

誰かがその絵を見て「良い絵」だと思うならそれでいい気がしますが。
良いと思った人のその気持ちはどこに向けたらいいのでしょうか。
「良い絵」なんていうのは完全に個人の主観なのですから。

また模倣された人はそんなに悪い気分になるでしょうか。
芸術家なんていうのは、自分が描いた絵が素晴らしければ、そこで満足するしかないと思います。
絵を描いて手に入るのは「富と名声」ではなく「自分の描いた作品」だと考えた方がいい気がしますが、いかがでしょうか。
真似された方、真似した方、それぞれにそれぞれの作品に対する気持ちがあって、またその周りの人々の理解がそれぞれある。芸術ならば、自己解決で充分な気がします。


僕は「盗作」を全肯定したいわけではありませんが、頭ごなしに「盗作」=「悪」だと決め付けてしまうと、この先、芸術文化がきちんとした方向に発展しないのでは、と思いました。

作品のあり方からもう一度考え直してみたいところです。
| culture | 00:59 | - | - |
芸術の境界線
芸術の境界線

客観的に「芸術であるもの」と「芸術でないもの」を分かつ境界線はありません。

なぜでしょうか。

芸術とは、自分が感じる全てであり、その感覚のみであるからです。

少し小さい話をしますが、人間が創作したもののみに芸術という称号を与えるというのにはとても違和感を感じます。
なぜなら、作品は全て作者の意図したもののみで構成されるわけではないからです。

人は今目の前にある感覚のみに感動しているのであり、その過程は関係ない。
その結果だけ感じとったときに、感じた人にとって、自然的なものと人為的なものとの区別はない。


風の音も電車の音も犬の鳴き声も人の話し声も人の歌う声も感じる人が感じたならば、そこに境界線を引くことが出来ましょうか。
全て同じ耳から入り脳に伝わる音の波なのですから。


今、自分が感じている全ての感覚、単なるこの感覚が芸術なのです。
| culture | 20:22 | - | - |
芸術の模倣について
最近、少し話した話題から。


「模倣」
という言葉をYahoo!辞書で調べてみると、

も‐ほう〔‐ハウ〕【模倣・×摸倣】[名](スル)他のものをまねること。似せること。「人の作品を―する」

と出てきました。

一般的に「模倣」という言葉はあまり良いイメージを持たれていないと思います。

しかし、芸術は模倣なしでは成り立たないと思います。
むしろ模倣なしの完全に独創的なものなど99.9999999・・・%ないと言っても言い過ぎではないと思うのです。

例として、文章家の文章を書くという行為で考えてみたいと思います。
文章は必ず単語や文字によって出来ています。
文字や単語、文章の規則性などは僕たちが生まれたときから周りの大人などを見聞きし真似て覚えたものばかりです。
僕らが日常で何気なく使っている言葉の全てが、何かしらの形で自分が模倣して体得したものなのです。
そういう意味で、自分が何もないところから考えて作っている(話している)ような文章も、実は何かしらの経験から来ているものなのです。なかなか気付きにくいことですけど。
文章家の文も同じですね。

ところで、ランダムな言葉の羅列に意味や芸術性を見出すような思想をするならば、芸術的独創は無限に広がります。話しとしてこの考え方は一先ず否定しておきます。

自分の知らない言葉を書くことができないという意味で、文章家は真に独創的ではありえない、と思うのです。
真に独創的ではないというのは、音楽家でも同じだと思います。

文章に比べ、音楽は曖昧な要素が多いので、中々話しとして理解しにくいかもしれません。その曖昧な性質がかえって様々な誤解を生んでいるのだと思います。

僕の(現時点での)結論は、あらゆる芸術的な表現は経験的な感覚から作られているものだと思うのです。
(それもかなり具体的な。)
作った本人である芸術家が己の中にある経験的な具体性が明確でない場合が多いのが現状です。
芸術家自身で大いなる勘違いに陥るのです。その結果の良し悪しは別として。


そもそも芸術を創造することが、一般的に、とても崇高な行為だと考えられていて、神聖化されているような気がします。
上に書いた通り「創造」とは、経験的な模倣による「再創」※である場合が99.9999999・・・%だと思うのです。
※「再創」は読んだ本に載っていた言葉で、創造は模倣を繰り返すところから生まれるとし、それを「再創」と呼んでいます。これだけだとずいぶんと曖昧に聞こえますけど。

では、模倣だらけの芸術世界は面白くないのか、ただ他人を真似するだけの冷め切った世界なのか、というとそんなこともないと思うのです。

その面白さや醍醐味については、芸術の「再創」のプロセスを考えてみることによって少しわかると思います。

それを考える上で、まず「感覚」と「思考」という二つの言葉について。

無意識的な脳の働きを「感覚」、意識的な脳の働きを「思考」として話しを進めます。
芸術は一般的に感覚的なものが表現されていると思われています。
つまり芸術家自身の内にある無意識的な部分を表現したものだと。
より感覚的なものの方が善しとされています。
「感覚」なしに芸術諸活動を行っていく事はできないでしょう。

しかし、僕が疑わしく思うのは、思考なしの無意識的な感覚のみで創作された作品は、まさにただの模倣という結果に陥りやすいのではないか、ということです。
むしろ、積極的に思考していった方が面白いものが生まれるのではないだろうかと考えているのです。

というのは、人が音について、どんなに思考してみたところで感じる音の全て(自分が発したり他人が発したりする全ての音)は理解や整理はできず、まさに音は音としてしか感じることが出来ません。
つまり、作る際に積極的に思考しようとしても、過程の中で感覚に頼る部分がかなり出てきてしまうと思うのです。
その過程の中で思考することを捨て去ってしまったら(完全に感覚だけに頼るようになってしまったら)、人間が自然的な(動物的な)身体(脳)で感じる感覚的な部分は生理学的には誰もが一緒なのですから、結果的に他人と大して違わないものが作られてしまうと思うのです。
そして、思考の繰り返しこそが面白い芸術を生んできたのだと思います。
きっと僕は文化に多様性を求めているのだと思います。

では「思考」するというのは具体的にどういう行為でしょうか。

結論から言うと、思考とはある物事とある物事を結びつけて考えるということです。人が何かについて思考するときは必ず何かと何かを結びつけ(組み合わせ)る、それしか方法はないのです。多分。
足し算するか、引き算するか掛け算割り算他にもひっくり返したり一部交換したり、考えられる限り様々な方法があると思いますが、そこに共通していることは事象Aと事象Bを結びつけて事象Cを導き出すというやり方なのです。多分。
複雑な思考も全てこの単純な式の繰り返しなのだと思います。

音楽を作ることも、複雑そうな感じがしますが、実際に作るときに考えるのはこの結びつけの行為の繰り返しだと思うのです。
音楽家が考えているのはそんなものでしょう。
それだけで音楽をはじめとする芸術が成り立っているならば芸術は非常につまらないものでしょうけど、実際は違います。
音楽の中には音楽家が思考していない要素が多分に含まれていてそれが音楽の持つ良さであるのです。

思考次第では、今まで誰もが感じられなかったような感覚のものが生まれたりするでしょう。

創作におけるこの過程―試行錯誤の先にある未知なる感覚を求めて。


上に書いた通り、「音楽」の素晴らしいところは、実は「音楽」が元々持つ素晴らしさであり、音楽家はただそれにちょっとした「思考」と「偶然性」いうスパイスを加えているだけなのです。

例えば、ジョン・レノンが「Imagine」という曲を完成させるまでにどれ程の事を思考したでしょうか。
歌詞とその意味を考えたでしょう。曲のコード進行と全体の構成を考えたでしょう。それを組み合わせてみたでしょう。何通りかのやり方で。
大まかですが、大体こんなことしか考えていないはずです。
音楽家ジョン・レノンがこれしか考えていないのにも関わらず、
「Imagine」が素晴らしく感じるのは上に書いたとおり元々音楽というものが素晴らしいからなんです。素晴らしく感じてしまうんですよね。

「Imagine」は曲としてみれば、そんなに特別なことはないのですが、(意識的にか無意識的にかはわかりませんが)きちんと人間が心地よく聴けるように出来ていますし(僕も好きな曲ですし)、その歌詞とジョン・レノンの声が組み合わさったことによって、良い感じに響くようになったのです。
繰り返しますが、音楽家が思考できる部分は、音楽が結果として持つ要素のほんの一部なのです。

とりあえずこんなところでやめておきます。


まとまりのない文章ですいません。
読みにくいかもしれません。
まとめようとすると嘘が出てきてしまうので、考えていることを適当に書いてみました。
| culture | 19:08 | - | - |
チンパンジー、ほかの類人猿よりむしろ人間に近い
[ワシントン 23日 ロイター] チンパンジーとほかの類人猿との関係を調べた米ジョージア工科大学の研究者チームによるリポートで、チンパンジーと人間との関係は、チンパンジーとそのほかの類人猿との関係よりも、より密接である可能性があることが分かった。
 米ジョージア工科大学の研究者チームが科学誌に発表したリポートによると、同チームは、チンパンジーが、ゴリラやオラウータンよりも人間に近い遺伝学的証拠を発見した、という。分子時計などを研究した結果「人間とチンパンジーは、ゴリラやオラウータンよりもゆっくりと進化してきたようだ」と結論づけている。
 専門家の間では長らく、人間とチンパンジーのDNAはかなり共通する部分があるとされていた。
(ロイター) - 1月24日15時20分更新

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yahoo!ニュースにこんな記事が出ていましたが、とても興味深いですね。


| culture | 01:09 | - | - |
『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』
『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』

さて、この主張はどこまで物事の真実を捉えているでしょうか。
まず、この「かっこいい」という言葉は客観的なものと捉えて、まず間違いなさそうです。これがもし主観であった場合、冒頭の言葉自体がただの矛盾した文章というだけですので。※ここでの間違いには下で気付いています。
「なんてかっこ悪いんだろう」またはこの「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という言葉、それ自体が、この発言者の主観のみで語られている場合はどうでしょうか。
また、客観的に「かっこいい」ことは客観的に「かっこ悪い」ことなのだ、という主張だとしたらどうでしょうか。

この言葉は何かというと、早川義夫が1969年に発表したソロ・アルバムのタイトルなんですね。

おそらく、こういうタイトルをつけるくらいの人なら、「かっこ悪い」という主張に客観性を求めていないと思います。物事の価値の違いを主張するだけのものすごく稚拙な主張だからです。

僕は、この人は次のように言っているんだと考えます。
「(客観的に)かっこいいことは、(主観で言えば)なんてかっこ悪いんだろう」
これが妥当な考え方でしょう。

さて、「かっこいい」とか「かっこ悪い」とはなんでしょうか。
それは事物に対する一定の価値観を与える言葉です。
一般的に、「かっこ悪い」という言葉は「かっこいい」という言葉に比べ消極的な意味で使われることが多いですね。


で、ここからが僕の考えなんですが、
客観的な意味において、「かっこいい」という言葉も「かっこ悪い」という言葉も同等に無価値である。
と思います。

この世の中に絶対的に「かっこいい」ものや「かっこ悪い」ものってあるかを考えてみてください。
もちろんないのです。
つまり「かっこいい」とか「かっこ悪い」などというものは客観的に決め付けられるようなものではないのです。

このような考え方を色んな価値基準にあてはめていくと、全ての「客観的な価値(や価値基準)」は崩壊します。
「客観的な価値(や価値基準)」の存在自体について考えていっても、やはりそんなものはないんだということに気づきます。
上では「かっこいい・かっこ悪い」という言葉を使って述べましたが、要はそういうことです。

では、客観的な価値というものがない中で、人は物事をどのように判断していけばよろしいのでしょうか。
客観的な価値基準を失った今、主観的な価値基準をどのように考えていけばよろしいのでしょうか。
それはとても難しいのですが、答えの一つに「直感」があります。
冒頭で主観は自由だと書きましたが、正にその通りだと思うのです。
主観で価値を主張されたら、もう何も言うことがありません。もちろん(ここまで述べてきたように)、そこに客観性を当てはめて対抗するわけにはいきません。

僕の考えからすると、
『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』
というのは、ほとんど何も言っていないことと同じなんです。
レベルとしては『僕はLampというバンドが好きだ』という言葉と同じ程度なんです。
僕ならこう言います。
『かっこいいこととかっこ悪いことは同じようなもんです』

このタイトルを付けた経緯や気持ちを推測すると、考えていることや感じていることは、僕とそんなに大差がないと思います。しかし、表現がやや足りなかった感は否めません。ただ、アルバムタイトルとしてのインパクトはものすごくあると思います。

何でこんなことを言ったかというと、このタイトルが気になっていたんですね。まだこのアルバムを聴いたことはないです。ごめんなさい。
いつか機会があったら聴きたいと思います。


作者がどんなことを言いたいか、
作者は主張を作品の中にどのような形でとじこめるか、
お互いがお互いを探る神経戦です。

是非、Lampの作品からも探ってほしいものです。
どの作品からもほぼ同じ答えが得られるはずですが、その際、全体を見渡すことを忘れないようにしてくださいね。


※書いた後、文章を読んで気づいたのですが、『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』という言葉が次のような場合について考察していませんでした。
「(主観で)かっこいいことは(客観的に)なんてかっこ悪いんだろう」
うーん。
僕が甘かったようですね。
こう捉えることによって、この主張にもう2つの答えが見えた気がします。
一つは、「俺ってなんてセンスのない、かっこ悪いやつなんだろう」ということをただ単に言っているとする考え方。この文章の意味をそのまま素直に受け取るわけですね。
もう一つは、上のように自虐的な表現を使うことによって、物事の真実を受け手に考えさせる表現とする考え方。

こう考えた時に、この作者が主張したかったのは、おそらく後者だろうと思います。

あ、これは!
先日のライブに来ていた人は覚えていただけていると思いますが、正に「夏に散らした小さな恋」の後のMCでこの曲について言おうとしていたことはそういうことなんですよ。

せっかくなので画像を載せさせて頂きます。


早川義夫 『かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう』1969年
| culture | 01:40 | - | - |
IQ
ネットで出来るIQテストを受けてみました。
IQというものが、頭脳の何を判断するものなのかよくわかりませんが、こちらのサイトは、すごく正確にテストしてくれている感じがしたので紹介します。
ちょっと時間がかかりますが(40分)、興味のある人はやってみてはいかがでしょうか。

海外のサイトなので、簡単に説明しておきます。
トップページから言語「English」を選び、次に「Start」というボタンが2回続けて出てくるので、それを押します。これでテスト開始です。
問題に対する解答はA〜Hの8つで、40分内に39問を解きます。
全部解き終わったら、右下の「Menu」にカーソルを合わせ、「Send」を押します。すると、テスト結果を表示してくれます。

ちなみに僕の結果は「126」でした。うーん。納得いかないっちゃあいかないが、これが現実なんだろう。

話しが変わりますが、Lampのライブやレコーディングでサポートをしてくださっている方々は、皆さんものすごく秀才です。
6月25日のライブに来ていただいた方ならわかると思いますが、ものすごくクレバーな顔つきでプレーしていましたでしょう?
揃いも揃ってみんなすごく頭が良いんですよ。
たしかに、昔からすごいミュージシャンって、頭良い人多いですよね。

ということで、また、ライブに来てくださいね。
バックの方々のクレバーな演奏を楽しんでください。
では、おやすみなさい。
| culture | 03:19 | - | - |
カルチャーといえばカルチャーです
「自分とは何か?」という問いに対する答えは見つかりませんが、見つからないなりにも、考え推測することは可能です。

僕は学生時代にこの答えを生物学に求めて、リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』を読みました。以前、そのことにちょっと触れました。
読んだのがだいぶ前なので、詳しいことは忘れましたが、このドーキンスの理論は、生存競争をしているのは個体ではなく遺伝子であって、個体は遺伝子の乗り物にすぎないと考えた画期的なものでした。ダーウィンの進化論をより適確に、よりわかりやすく説明したもので、生存競争に有利な遺伝子ほど適応率が高くなり、そういった遺伝子がより多く次世代に伝わり、そうでない遺伝子は淘汰されていくというものでした。
このドーキンスの理論は、「働きアリ・働きバチに生殖行動がないこと」や
「同種のアブラムシに2つのタイプがあること(兵隊型と普通型?)」など、それまで個体の生存競争という考えでは説明しえなかった事象をすっきりと説明しました。
このドーキンスの考えを、より具体化して私達人間の日常生活に関係があることに照らし合わせて考えたのが、竹内久美子という人です。
この竹内久美子の書いたものは、ドーキンスの理論を飛躍させすぎているなど、多くの批判がありますが、それでも内容は非常に興味深いものだと思います。


リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』


これらが僕の生き方(っていうと大げさ?)に影響を与えたのは間違いありません。
その選択が、科学がもっと発展した時代から考えると馬鹿みたいなことに映るかもしれませんが、今の時代に生きる人間としては致し方ない選択だと考えています。

学生時代の僕は「自分(=人間)とは何か?」を知るには、「生命とは何か?」を知ればいいと思ったんですね。
で、その「一番初めの遺伝子はどうして自分のコピーを作ったのか?」という部分なんですが、そこには何の理由もないと思います。こう考える根拠は何もなく、ただの感ですが。知る由がないので、最後は感に頼るしかないのです。
とにかく、地球(宇宙?)で、一番初めの遺伝子が自分のコピーを(たまたまでもいいから)作って、それが現在まで続いてきた。
じゃあ僕もそうするために努力しなければいけない(のか?)。
(のか?)の部分にはさらに「そうではないのか?」が付きますね。もうここは生物学的な観点から離れて哲学の方に飛びます。
自分の人生は1回しかなく、有限なものであります。
例え何かを残したとしても(自分の子どもでもいいし、最高の芸術作品でもいい)、それもいつかはなくなってしまう。それらを認識する一切がいつかはなくなってしまう。
じゃあ、僕はどうすればいいんでしょうか。
ここで、ニヒリストのようなやたらとすごい理屈に飛んでしまいますが、もうこうなったら今という瞬間瞬間を自分が満足するように生きるしかないではないですか。
と言った瞬間「そうすることによって満足するのか?」という問いが自分に降りかかってきます。
苦しいですね。生きるのって。
でも、苦しんでいては勿体無い。せっかくの時間が。
でも苦しんで満足なのか。どうなのか。

で、お解りの通り、こういうことを考えながら、時間だけは進んでいってしまうので、とにかく自分がやりたいと思うことの一つである音楽を作ろうと思ったんですが、「作る」といっても色んな考え方があると思います。
どういったものを作るべきなのか。
自分の中に自然発生したものを表現するのか。
他の誰も作っていないようなものを探求していくのか。

こう記すことによって自分という人間が見えてきます。
あまり他の人とこういったことを話す機会というのはないので。

まだまだ続けたいところですが、

今夜はおやすみ。
| culture | 02:57 | - | - |
踏切
| culture | 01:43 | - | - |
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