2014年2月5日
Lamp 7thアルバム『ゆめ』リリース



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音楽レーベルBotanical House



生い立ちからバンド結成、
そして現在までの経緯。


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音楽の無人販売所
今でも郊外や田舎に行くと、野菜の無人販売所を見かけます。
野菜を欲しいと思った人がそこに備え付けてある箱にお金を入れて野菜を持ち帰る仕組みのやつです。

どのような考えや気持ちで農家の方々があの販売方法を採っているのかは今でも知らないままなのですが、
幼い頃、それを見て、「これは大丈夫なのかな」と人事ながら不安に感じたものでした。





自分がミュージシャンとして、また、レーベルを始めたものとして、
音楽を売っていくということを考えるときに思い浮かべるのは、いつもあの風景なのです。


音楽にお金を払わずとも聴ける時代、
音楽にお金を払うことが当たり前ではなくなった時代、
そんな時代でそれでも音楽を売っていくには、
心ある方々だけを相手に売っていくしかないという結論に毎度のように達するわけです。
自分ひとりで考えても、周りの人と話してみても。

そして、あの風景を思い浮かべ、幼い頃不安に感じた時と似たような気持ちになるのです。


今、外国のアーティストの間では、Bandcamp等を利用して自分の作った音楽をリスナーに直売することが主流になっているようです。
これはトレンドというよりも、そうするのが最善策だという考えなんだと僕は思います。

Bandcampでは、リスナーがアルバムまるごと無料でダウンロード出来るように設定しているアーティストも少なくないようです。
これは宣伝の意味と将来に対する投資の意味があるのかなと思います。



インターネットで少し検索すると、僕らの初期の作品に1000人以上のユーザーが星5段階評価を付けている中国語のサイトが見つかります。
彼らがどういう状況でそれらを聴けていて、評価をしているのかは知りません。
もちろん僕らの音楽は中国で盤の販売もダウンロード販売もしたことないし、そういうお金ももらったことは一度もありません。
逆方向から言うと、中国の方が偶然インターネット上で僕らの音楽を聴き、「ほしい・買いたい」と思っても正規のものを手に入れる方法が無いのが現状なんですね。

ここはいつももどかしく思っていました。
彼らの中にも、手に入れる対価としてお金を払いたいと思っているユーザーは居るはずだと僕は思うんです。

自分たちでレーベルを始めた理由は沢山あるのですが、その一つがこういう部分をなんとか出来ないかと思ったところにあります。


インターネットで世界との距離が縮まった今、
野菜の無人販売所の前にどこでもドアが設置されたようなイメージです。

 
| about music | 11:52 | - | - |
只今、Lamp official websiteが繋がらなくなっております。
只今、Lamp official website(lampweb.jp)の方が繋がらなくなっております。
復旧しましたら改めてお知らせいたします。


----------------

今日は、「自分にとっての音楽」ということをちょっと書いてみようと思います。

これについて考えたのは、昨日のことでして、昨日のうちに書ければ良かったのですが、
今日がレコーディングだったので、そんなことで寝不足になるのも嫌だなと思い、
昨日は書くのをやめました。



僕は、音楽を作るとき、(敢えてここは自分たちではなく、自分と言いますが)自分の音楽を聴いてくれる人々が、それぞれ一人で、音楽と一対一の関係を想像して作ります。
想像してというか、正確には、それが当たり前になっています。

というのは、自分が普段そうやって音楽と接しているからです。


もちろん、「音楽を聴く」という状況にも、色々な状況が考えられるわけで、
これらは僕にもあてはまったりするのですけど、

音楽仲間やバンド仲間が音楽を聴く目的で2,3人で聴いたり、
恋人や友人とお互いの部屋で、時にはBGMとして、時には音楽を聴こうとして聴いたり、
クラブのような大勢が集まる場所でみんなで話しながら、時には踊りながら聴いたり、
カフェやレストランのような場所で流れたり、
お店や仕事場などで聴いたり、等々。


そんな中で、
音楽の良さを一番感じるときって、僕の場合は圧倒的に一人で聴いているときだなと思います。

そういう時は、感性がとても豊かになれます。
想像力がよく働くというか。
誰にも邪魔されずに、音楽にだけ集中できるし、
その世界の中に飛び込んでいけるんですね。
すごく当たり前のことを書いていますけど、本当にそうです。


そういう時にこそ、創作へのイマジネーションを刺激されますし、
そういうときに自分に響いてくる音楽こそ、僕は一番良い音楽だと思っています。
色んな良さがある中で、何もこれが一番だと決め付ける必要はないのかもしれませんが、
「作る」という行為に繋げる場合、あれもこれもというわけには中々行かず、
やはり、自分にとって一番良い音楽とは何かなどということを考えるわけです。


そういうわけで、僕が作る音楽もそのような傾向になっているのだと思います。
結果的に、聴いてくれる方々にどう響いているかは別の問題として。


今日は、敢えて「自分」として書きましたが、永井も香保里さんも、音楽や歌詞を作る前提としておそらく僕と同じで、
こういう中々人と人の間でシェアされにくい音楽性だから、僕らの音楽はすごく良い(と、このブログを読んでいる方はそのように感じてくれていると思いますが)割には、まだそこまで?広がっていないのかなと思います。




僕は、そうやって、思えばいつも音楽に彩られて青春時代を送って来ましたし、
それは今も変わらず、
音楽がいつも僕の生活を彩ってきました。

僕にとって、音楽とは常にそういう存在でした。


なので、僕も、音楽を作るなら、誰かの生活、特に青春を彩ることが出来たらなと思うわけです。

自分が感じることしか出来ないって事でもあるんですが。


日本や世界のどこかに、そうやって人知れずLampの音楽を愉しんでいる人がいることを考えただけで、僕はワクワクしますし、
もし、そういう人々の生活や気持ちを、音楽を通して、彩ることが出来たら、これ以上のことはないと思っています。




今作っているものが、これまでのものと何か違うとか、あまり変わらないとか、
それは聴く人それぞれ感じ方は違うと思いますけど、
今日ここに書いたような意味では、今作っているものはこれまでとなんら変わらないものだと思います。



今日のレコーディングで進めたものを帰ってから聴いたら、良い感じでした。

残りの作業も順調に行くと良いのですが。


ちょっと文章にまとまりがありませんが、
今日はこんなところで。

| about music | 00:23 | - | - |
カエターノとガルの『ドミンゴ』に思う
今日は、このアルバムの内容ではなく、音についての記事です。


--------------
ブラジリアン・ミュージック入門というカテゴリーを作ったものの、更新しないままかなりの月日が経っていたので、そろそろ第3回、カエターノとガルの『Domingo』について書こうと思いたった。

そして、記事にYouTubeのリンクなんかを貼ったらわかりやすくて親切だよななどと思って、検索をかけた。

そしたら、超が何個も付く名盤にも関わらず、あまり曲がアップされていない。
なんでだろうと思いつつ、曲を再生してみる。

音質が悪いYouTubeの中でもましなものを選ぼうと、同じ曲でもいくつか上がっていれば検索結果の範囲で全て聴いてみた。
どれを聴いてもすごく違和感があった。
「あれ?いつも自分が聴いている音像と違う」と。

なんか、よくあるブラジル盤CDのペラペラな感じだったり、音圧もやたらと小さいし、リバーヴがやたらとかかっていたり。
「(僕が普段聴いているのは)こんな音源じゃない」「これじゃ、皆に良さが伝わらないよ」と。


僕の場合、『Domingo』は98年頃にCD化されたものと、オノセイゲンさんのDSDマスタリングのCDしか聴いたことがなく、LPでは聴いたことがない。
もう長いこと、オノセイゲンさんのDSDマスタリングのCDで聴いていて、この音が僕にとっての『Domingo』像である。
YouTubeで聴けたものには、この、声やフルートなどの楽器がすぐそこで鳴っている感じが全くないのだった。

そこで気づいたのが、普段僕が聴いているCDはおそらく日本のみの発売であるということ(日本のユニバーサル)。
そう考えると、日本人はこんなに良い音で聴けて得しているし、他の国の方々は大変な損をしていると言える。
もしかすると、このYouTubeにあまり曲がアップされていないのは、そもそもそんなに評価されていないのかとも思った。あんな音だったらその可能性もあり得ると思った。
誰か、日本の人がYouTubeに『Domingo』の音源をアップしたとしたら、世界中のブラジル音楽ファンは驚くかもしれない。
絶対、驚くだろう。
「え、これ、[Domingo]!?」「Amazing!!」「How did you get this??」となるに違いない。

さらに考えると、僕が普通に聴いているこの音像は制作者等が意図した音像とは別物なのかも知れないなどとも思った。いや、その可能性はけっこう高い。

そう考えていくと、昔の音源を今の人にどういう音で聴かせるかというのはかなりの難題であると分かる。

この『Domingo』の処理は、少なくとも僕にとっては成功・正解だと思う。
もっと上があるかどうかはわからないが、おそらく的の中心に限りなく近いところをいっているだろうと思う。
音楽は全てバランスだ。
ということが、長年音楽をやってきて気付いたことだが(昔は積めば積むほど良い音楽になると信じていた)、これは非常に良いバランスで仕上がっているのである。


ちょっと話が逸れるが、最近の、昔の音源のCD化の音はほとんどの場合納得出来ていない。
音を潰しすぎている。
僕は高音が強いのが苦手なのだが、
最近の再発もののハイハットとか聴いてられない。
僕の使用しているヘッドホンは高いところは強調しないようなタイプのものだが、それでもきつい。

そんなCDだったら昔の企画のもの(90年代前半くらい)をボリュームを上げて聴いているほうが良い場合が多い。

せっかくもとの音源は良いんだから、
あれはどうにかしてほしい。



| about music | 00:07 | - | - |
音楽家の評価

音楽家が亡くなったというニュースをたまに見かけますが、その人が死んでから騒ぐぐらいなら、その人が生きている間に「こいつは凄い、凄いよ」と騒ぎたい(騒いであげたい?)ものだなと思います。

その最たる例が、マイケル・ジャクソンですね。

亡くなってからというもの、世間は手のひらを返したような評価をした。
もちろんもともと評価はされていましたが。
彼が亡くなった際のマイケル特需は凄かったのではないでしょうか。
人間性も否定的な意見は僅かになり、肯定的なものばかりが採り上げられるようになった。
そもそも、彼が残した音楽と彼の人間性は同列で語られなくて良いと思うんですけどね。


などと、書いているところになんなんですが、
僕の場合、どちらかというと人と作品を切り離して考えるためか、その人が生きているかいないかを気にすることは普段あまりないのですけど。
ライブにもあまり興味がないですし。



以前、そんな話しをLampメンバーで話していたことがあったのですが、
その折に永井が発した一言、
「今おれを評価してない奴等、おれが死んでから絶対評価するなよ」
とのこと。

認めないそうです。

| about music | 00:31 | - | - |
音楽評論・音楽批評について

「自分の人生で音楽評論に期待するものなんて最早何一つない。リスナーとしても表現者としても。それよりも実際にちゃんと音楽に耳を傾けて聴いている人の心の感想の方が余程興味があるし、価値を感じる。」

「音楽も評論もそれが仕事になってしまうととたんに駄目になるんですね。」

などとツイッターに書きました。

以前、僕はツイッターにこうも書いています。

「批判や批評が良い文化を育むことも大いにあると思う。というか、それがないとどんどん駄目な文化になっていく。音楽も、駄目なものは駄目とみんなが言っていける方が余程健全だと思う。ものを作る人は最終的には作品で勝負し、結果売れたかどうかではなく、自分が満足出来たかどうかが大切。」



僕自身は、普段、音楽を言葉で「語ることの不自由さ」も、「語られる事の不自由さ」も両方感じています。

まず、僕は「音楽」と「文章や言葉」について言えば、圧倒的に「音楽」に興味がある人間です。
それは、「音楽」があまりにも魅力的だからだと思う。僕にとって。
そうじゃない人もいるのは知っていますが、話しを進める上でその前提は重要です。


「語ることの不自由さ」に関して言えば、今聴いている音楽がこんなにも素晴らしいものなのに、僕が(例えばブログやコラムなどで)文章で書き表そうとするとなんて陳腐なものになってしまうんだろうと感じますし、また、自分が大好きな音楽に関する誰かの文章なんかを読んでも、その音楽を聴いて得られる感動と比べるとこれっぽっちも感じないものなんですよね。
ちなみに、ロック系は読むにも値しないようなくだらないのが多い。子ども相手と割り切っているのか何を書いているんだかという感じ。ブラジル系は表現力不足。ロック系に比べると、皆かなり真面目に書こうとしているんだけど、言葉がもともと持っている力の限界が音楽で表現されたものに対し足りてないという感想が多い。ここは特に個人的な感想です。

話しを戻しますが、「音楽」に比べて、「その音楽に関する文章」がいかにつまらないものか、と感じているんです。


また、「語られる事の不自由さ」に関してですが、
僕は、自分たちの音楽について、誰が褒めようが貶そうがそれは自由だと思っています。
但し、それはあくまでその人の意見(として皆さんにも捉えてもらいたい)。積極的な意味でも消極的な意味でも。
勘違いしないでほしい点は、
評論・批評は、常に、その書き手が、自身の感性に根ざしたものであるべきで、その前提であれば、どんなに有名な批評家であろうと素人であろうとその価値は全く同じだということです(少なくとも僕にとっては)。
どこかの雑誌にどう書かれていたとか、そんなものは何の客観性もなく、
あくまでそれは例えば一雑誌の一ライター、もしくは小さなサークル内での感想文であるということです。オーバーな話しではなく。
それは、自分の大好きな音楽の魅力を他人に伝えようと一生懸命に文章を書いたことがある人ならわかるはず。
一個人の解釈が、さも客観的な評価のように広がっていく事に違和感を感じずには居られません。

昔は、例えば音楽雑誌等に掲載される事に対する小さな憧れが自分の中にありましたけど、今は不思議なほどそういう気持ちがなくなっています。
恐らく、いくつかの経験とともに世の中の色々な現実だとか大人の事情だとかを知り、それまでに自分が抱いてきた、言ってみれば見誤った価値観が自分の中で崩壊したのだと思います。

僕は、自分たちの音楽が掲載された文章を読んで、そのライターの感想ということでいつも読んでいます。
それ以上でもそれ以下でもなく。
そのレベルで賛否を受けいれています。
大体、今まで僕らはそういうメディアに使うお金なんてなかったから雑誌にもほとんど載ったことないし、逆にいうなら、どんなメディア媒体にせよ、僕らを載せてくれているところはどこも良心的というか、(その姿勢は本来メディアとして基本的なことだと思うのですが)音楽を評価して載せてくれているところばかりで、世の中の現実から比較してみるならば、心が和むような存在であったわけです。



僕は自分が既に所有していて何度も聴いている音楽についての評論や批評を読んだりすることは基本的にありません。
食べログでチェックして訪れたお店の料理を食べながら、人の評価を知るためにわざわざ食べログ内の口コミを読んだりはしませんよね。
その食事を自分が堪能すれば良いだけの話しですから。
音楽も同じです。
せいぜい、歌詞やクレジットを眺める程度です。


じゃあ、評論・批評は必要ないかというと、そんなことはないと思うわけです。

「自分の人生で音楽評論に期待するものなんて最早何一つない。」というのは、音楽メディアの評論のことを意味していて、
以前の発言として冒頭で引用しましたが、音楽に対する評論・批評自体の必要性は大いに感じています。そういうものが、音楽の発展に繋がっている面もあると感じます。
話しの流れからわかってもらえると思いますが、それも、(どんなメディア媒体であろうと)どこまでいっても個人レベルでの主観の評論・批評であって、それがどんなに積もろうともなお主観と客観の問題からは逃れられないわけですが、リスナー一人一人が自身の感性でもって批評していくようなムードを僕は歓迎しています。

| about music | 21:36 | - | - |
最近思うこと

オリジナルの創作物を作る上で、「意気込み」というのは、とても大事だと思う。

こういうことを人に言うと馬鹿にされるかもしれないけど、
僕らは1stアルバムの『そよ風アパートメント201』を作っていたのが21、22歳の時だったのですが、
当時、「ブライアン・ウィルソンが『Pet Sounds』を作ったのが23歳、スティーヴィー・ワンダーが『Music Of My Mind』を作ったのが21歳だな」などと、超天才と言われる彼らの年齢を意識して、「負けないぞ」という気持ちで作ったものだった。

僕らはアレなので、結果、まああんな感じなんですが、、
そういう意気込みが何かを生んだのは間違いないし、
それは今にも繋がっていると思うし、
目標を高く設定して、悪い事はあまりないと思っている。

制作において、一度作業が始まってしまえば、楽器やスピーカーやヘッドホンから出てくる音と絶対的な価値観で向き合うけれど、
作業のきっかけとなる段階においては、凄いアーティストが居るおかげでこちらも刺激を受ける事が出来るわけで、そういうのがかなり重要になって来る。

最近感じるのは、日本国内に、刺激されるような音楽がないことが哀しいというか、
なんでしょう、馴れ合いで音楽をやっていても良いものが出来るわけないと思うんですね。僕は。
温いというかなんというか。
オリジナルを作るなら、もう皆が皆、他のバンドをなぎ倒すくらいの意気込みで作るべきだと思う。

音楽業界も出ている音楽自体も、現状に明るいものを感じる事が出来ない。
それは特定の誰かの所為とか、そういうわけではないと思うけど。
とにかく音楽で僕を感動させて欲しいと思うんです。それは悔しいことでもあるけど、嬉しいことでもある。
本来身近であるはずのものから良い刺激を受ける事が出来ない中で作るのもまたけっこう辛いなと思うのです。特に最近。

最近の僕の心の拠り所は、例えば、上に挙げたような洋楽だったり、ブラジル音楽だったり、一部の、本当に心の底から掛け値なしで良いと思える、感動できる音楽。
そのような音楽に対して、自分たちなりに受け留め、思考し、創作し、表現して行こうと思うわけです。

最近、もっと良い音楽が聴きたいなと、そういう気持ちで過ごしています。

| about music | 23:57 | - | - |
モレーノ・ヴェローゾの『Moreno+2』を聴いて ―新しさについて
「新しい」に騙されないほうがいいと思う。

以前、カエターノ・ヴェローゾの息子であるモレーノ・ヴェローゾの『モレーノ+2』を、友人に聴かせてもらった。
カエターノのファンには嬉しい内容だった。
その歌声は父親のカエターノそっくりだし、曲調もそっくりだった。韻の踏み方とか、譜割りとか、本当にそっくり。
(歌はカエターノの方が上手いけど)

正確にはわからないけど、モレーノが幼少時代って1970年代だから、一番多感な時期に父親のあの素晴らしい音楽を浴びて育ったんだと予想できる。
実際、モレーノの音楽を聴いて、いつのカエターノを思い起こさせるかと言えば、1975年あたりから「オウトラ・バンダ・ダ・テーハ」の頃くらいのカエターノっぽいんですね。

そこで、僕は思うわけです。
このモレーノの音楽、「新〜」とか「ネオ〜」とか言われているけど「モレーノの何(どこ)が新しいのか」と考えると答えに窮してしまうんです。
歌声と曲が父親カエターノに本当に似ているだけに、その違いを比べるのがすごく容易なんですね。
この疑問は、モレーノというよりも、今の音楽界に投げかけられているものだと思うんです。

「この20数年で音楽の何が進歩したのか」

この親子がこれを証明してしまっているかのようです。

僕なりに言葉で表現するなら、「ほとんど進歩なし」となります。


かといって、「モレーノの音楽は良くないのか」と言われれば、そんなことはなく、「すごく良い」んです。

そこを取り違えてしまうことが、モレーノの音楽の魅力を掴みにくくしてしまうような気がします。

当たり前のことなんですが、一番重要なのは「新しいかどうか」ではなく「良いかどうか」だと思うんです。


Moreno+2 『Music Typewriter』2001年

カエターノを好きな人がいる場所で、何気なくかけたい1枚ですね。
| about music | 01:54 | - | - |
音楽を読むこと
荒俣宏の『目玉の思想と美学 図像学入門』(集英社文庫)を買って読んだり、最近、若桑みどりという人の『イメージを読む』(筑摩書房)をパラパラと立ち読みをしたりして、「図像学」というものに少し興味を持っています。
薄々そういうものの存在を感じていて、ちょうど興味を惹かれたというべきでしょうか。


荒俣宏『目玉の思想と美学 図像学入門』(集英社文庫)

図像学というのは、
・絵画や彫刻に表されたパターンや意味を解釈する学問
・絵画にこめられた要素を読み解くための学問
・キリスト教の絵画や建築物に残された美術に隠されたさまざまな寓意的・象徴的な意味を見いだす学問
などと、「図像学」で検索すると上のようなことが書かれたウェブサイトに当たります。

図像学では、絵を「見る」のではなく「読む」のが基本、だそうです。
図像学がどういうものなのか大体分かりますでしょうか?
詳しくは専門のサイトや本を調べてみてください。

これについて様々なことを考えてしまうわけです。
とりあえず、絵に関してはおいといて、そこから僕が考えたこと――「音楽」に関して少し書いてみたいと思います。

図像学という学問の存在からわかるように、絵は、見ることも出来るし読むことも出来る。
「読む」というのは、普通、文章でやることですね。
文章は、普通、一つ一つの言葉や事柄に意味があり、関係性があり、解釈が容易であるものです。
逆に言えば、「読める」ためには、要素でも部分でも全体でも、とにかく何か解釈するための意味を持っていることが必要というわけです。

僕が思うのは、文章や絵を読むように、音楽も読むのか(読めるのか・読むべきなのか)ということです。
このことは、音楽を作るときに、ものすごく考えることなんです。

実際、自分で音楽を選択して聴くようになってから、多くの音楽を「聴き」ながらも「読んで」きたように思いますし、多くの音楽(曲)を「感じ」ながら作り、同時に「読み」ながらも作ってきたように思うのです。

どこから話せばいいんだろう。

具体的な例を出して、考えてみます。
今、僕はSimoneの「Valsa Rancho」という曲を聴いている。
瞬間瞬間の音が耳という器を通し、脳に入ってくる。脳がこの音楽の音を捉える。
僕がこれを何かとして捉え具体性を持って認識した時、僕の中でそれはこの曲を「読んだ」ことになる。
具体性とは、なんでもいいのですけど、例えば、「ミナスっぽいコードを使っている」「メロディが降りていった」とか。
『捉えられていないけど「感じた」状態』のその次の状態。
音を、音そのものではない何かに変えて解釈している状態。
物理的な刺激を受けて、言語化などして反応している状態。
これが音楽を「読む」ということの一つであると思います。

音楽を「捉える」ことのわかりやすい例が、「譜面におこす」という行為でしょう。
音楽を「読む」ための「捉える」ということ。その中でも「譜面におこす」ということは、最も客観性を持った方法であると思われます。他にも色々な記号化があります。
そして、それらの記号たちに意味を付けていくのが、音楽理論の構築だと思うのです。

音楽を「読めない」人がいたとしたら、その人にとって音楽を作ることは、非常に困難を伴うことだと思います。
実は、「音楽を読む」ということは音楽が生まれるにあたっては、避けられないことだと思うのです。

しかしながら、また、音楽を「読んでばかりの人が作る音楽はつまらない」のです。
これは、最近僕が感じていることなのです。
最近の日本の音楽は、読んでばかりいる上に読みが浅く、かなりつまらないですね。
一絡げに言うのもなんですが、ひどくそういう傾向にあります。

音楽は、絵画においての「図像学」のように、「読む」という行為が容易ではありません。
それは、音というものが、感じることは出来ても、それ自体では意味を持たないので、解釈が困難なのです。
音楽が他の芸術と大きく違う、音楽の特徴です。

そして、僕らは、音楽に関する色々な読み物を読まされてきた世代なのです。
洋楽でも、日本盤CDを買えば、解説やら対訳やらが付いていてついつい目を通してしまいます。
と同時に、自分でも実際にCDをかけ、感じ、自分なりにも色々と音楽を「読んで」来たのです。
音楽作品というのは、こういった要素から多大なる影響を受けて、作られるのです。
僕らは、ビートルズがビーチ・ボーイズがサイモン&ガーファンクルが、、、どんな活動をしてどんな音楽を作ってきたか、「図像学」的に言葉で捉え解釈することも、ただその作品を聴き、解釈することも可能なのです。


図像学的観点だけで、音楽を構築することも出来るでしょう。
しかし、それは、芸術の歩むべき道ではないように感じます。
60年代末、ブラジルで起こったムーヴメント「トロピカリズモ」のことを書いた本について、以前このブログに書きましたが、その本の中にあるカエターノが言っていたこと、それは僕が今ここで言おうとしていることととても似ているんです。こちらの記事の最後の部分です。
トロピカリズモがやろうとしていたことの重要性ももちろんわかりますし、こういうことは好きですが、でももっと重要な大切なことがあるように感じています。

長くなったので、また今度書きます。
| about music | 01:42 | - | - |
良い音楽・駄目な音楽 とは
大衆に寄り添うのではなく、大衆を引き寄せる。
最近は、そういう音楽がめっきり少なくなりましたね。

音楽を作るとき、基準を外側に持ってばかりだといつまで経っても良い音楽は生まれないと思います。

せっかく他の人と違うことを感じて音楽をやっているのだから、自分の感じていることをなるべくそのまま表現してみた方がいいのではないでしょうか。実際作るときはそんな単純な話しではないかも知れませんが、そういう気持ちでやらないと駄目なのでは、と思いました。

「新しさ」も、そうすることによって生まれる気がします。

僕の中では、聴こえてきた音楽が「これ、外側に基準があるなぁ」と感じただけでアウトになってしまいます。そういう音楽は、スタート地点にも立てないんですね。僕の中のフィールドにいない。
特に最近の日本のとかだとほとんど聴けるものがないですね。
偏見を持っているわけではないんですよ。実際僕が感じている話しです。

70年代のブラジルの音楽とかがそれぞれすごく個性的なのは、みんな自分の思うように自由にやっているからではないかなぁ、なんて感じています。
だから聴いていてとても面白い。奥深く、飽きない。

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今日はあまり聴かないCDを売ってこようと整理をしていました。
あまり聴いてなかったものを久しぶりに聴いたら、どれもそんなに悪くなくて、結局、売りに行くのをやめてしまいました。
| about music | 18:56 | - | - |
音楽
音楽は過ぎた時を想起させてくれます。
寒くてどうしようもない冬の日に、胸の奥できんらりと輝いたあの瞬きを今一度燈してくれます。

音楽はけして掴めません。止まってもくれません。
音は瞬間的に消えていきます。
きわめて刹那的なものです。


Toninho Horta 『Toninho Horta』1980年
| about music | 02:16 | - | - |
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