2018年5月15日
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芸術の模倣について
最近、少し話した話題から。


「模倣」
という言葉をYahoo!辞書で調べてみると、

も‐ほう〔‐ハウ〕【模倣・×摸倣】[名](スル)他のものをまねること。似せること。「人の作品を―する」

と出てきました。

一般的に「模倣」という言葉はあまり良いイメージを持たれていないと思います。

しかし、芸術は模倣なしでは成り立たないと思います。
むしろ模倣なしの完全に独創的なものなど99.9999999・・・%ないと言っても言い過ぎではないと思うのです。

例として、文章家の文章を書くという行為で考えてみたいと思います。
文章は必ず単語や文字によって出来ています。
文字や単語、文章の規則性などは僕たちが生まれたときから周りの大人などを見聞きし真似て覚えたものばかりです。
僕らが日常で何気なく使っている言葉の全てが、何かしらの形で自分が模倣して体得したものなのです。
そういう意味で、自分が何もないところから考えて作っている(話している)ような文章も、実は何かしらの経験から来ているものなのです。なかなか気付きにくいことですけど。
文章家の文も同じですね。

ところで、ランダムな言葉の羅列に意味や芸術性を見出すような思想をするならば、芸術的独創は無限に広がります。話しとしてこの考え方は一先ず否定しておきます。

自分の知らない言葉を書くことができないという意味で、文章家は真に独創的ではありえない、と思うのです。
真に独創的ではないというのは、音楽家でも同じだと思います。

文章に比べ、音楽は曖昧な要素が多いので、中々話しとして理解しにくいかもしれません。その曖昧な性質がかえって様々な誤解を生んでいるのだと思います。

僕の(現時点での)結論は、あらゆる芸術的な表現は経験的な感覚から作られているものだと思うのです。
(それもかなり具体的な。)
作った本人である芸術家が己の中にある経験的な具体性が明確でない場合が多いのが現状です。
芸術家自身で大いなる勘違いに陥るのです。その結果の良し悪しは別として。


そもそも芸術を創造することが、一般的に、とても崇高な行為だと考えられていて、神聖化されているような気がします。
上に書いた通り「創造」とは、経験的な模倣による「再創」※である場合が99.9999999・・・%だと思うのです。
※「再創」は読んだ本に載っていた言葉で、創造は模倣を繰り返すところから生まれるとし、それを「再創」と呼んでいます。これだけだとずいぶんと曖昧に聞こえますけど。

では、模倣だらけの芸術世界は面白くないのか、ただ他人を真似するだけの冷め切った世界なのか、というとそんなこともないと思うのです。

その面白さや醍醐味については、芸術の「再創」のプロセスを考えてみることによって少しわかると思います。

それを考える上で、まず「感覚」と「思考」という二つの言葉について。

無意識的な脳の働きを「感覚」、意識的な脳の働きを「思考」として話しを進めます。
芸術は一般的に感覚的なものが表現されていると思われています。
つまり芸術家自身の内にある無意識的な部分を表現したものだと。
より感覚的なものの方が善しとされています。
「感覚」なしに芸術諸活動を行っていく事はできないでしょう。

しかし、僕が疑わしく思うのは、思考なしの無意識的な感覚のみで創作された作品は、まさにただの模倣という結果に陥りやすいのではないか、ということです。
むしろ、積極的に思考していった方が面白いものが生まれるのではないだろうかと考えているのです。

というのは、人が音について、どんなに思考してみたところで感じる音の全て(自分が発したり他人が発したりする全ての音)は理解や整理はできず、まさに音は音としてしか感じることが出来ません。
つまり、作る際に積極的に思考しようとしても、過程の中で感覚に頼る部分がかなり出てきてしまうと思うのです。
その過程の中で思考することを捨て去ってしまったら(完全に感覚だけに頼るようになってしまったら)、人間が自然的な(動物的な)身体(脳)で感じる感覚的な部分は生理学的には誰もが一緒なのですから、結果的に他人と大して違わないものが作られてしまうと思うのです。
そして、思考の繰り返しこそが面白い芸術を生んできたのだと思います。
きっと僕は文化に多様性を求めているのだと思います。

では「思考」するというのは具体的にどういう行為でしょうか。

結論から言うと、思考とはある物事とある物事を結びつけて考えるということです。人が何かについて思考するときは必ず何かと何かを結びつけ(組み合わせ)る、それしか方法はないのです。多分。
足し算するか、引き算するか掛け算割り算他にもひっくり返したり一部交換したり、考えられる限り様々な方法があると思いますが、そこに共通していることは事象Aと事象Bを結びつけて事象Cを導き出すというやり方なのです。多分。
複雑な思考も全てこの単純な式の繰り返しなのだと思います。

音楽を作ることも、複雑そうな感じがしますが、実際に作るときに考えるのはこの結びつけの行為の繰り返しだと思うのです。
音楽家が考えているのはそんなものでしょう。
それだけで音楽をはじめとする芸術が成り立っているならば芸術は非常につまらないものでしょうけど、実際は違います。
音楽の中には音楽家が思考していない要素が多分に含まれていてそれが音楽の持つ良さであるのです。

思考次第では、今まで誰もが感じられなかったような感覚のものが生まれたりするでしょう。

創作におけるこの過程―試行錯誤の先にある未知なる感覚を求めて。


上に書いた通り、「音楽」の素晴らしいところは、実は「音楽」が元々持つ素晴らしさであり、音楽家はただそれにちょっとした「思考」と「偶然性」いうスパイスを加えているだけなのです。

例えば、ジョン・レノンが「Imagine」という曲を完成させるまでにどれ程の事を思考したでしょうか。
歌詞とその意味を考えたでしょう。曲のコード進行と全体の構成を考えたでしょう。それを組み合わせてみたでしょう。何通りかのやり方で。
大まかですが、大体こんなことしか考えていないはずです。
音楽家ジョン・レノンがこれしか考えていないのにも関わらず、
「Imagine」が素晴らしく感じるのは上に書いたとおり元々音楽というものが素晴らしいからなんです。素晴らしく感じてしまうんですよね。

「Imagine」は曲としてみれば、そんなに特別なことはないのですが、(意識的にか無意識的にかはわかりませんが)きちんと人間が心地よく聴けるように出来ていますし(僕も好きな曲ですし)、その歌詞とジョン・レノンの声が組み合わさったことによって、良い感じに響くようになったのです。
繰り返しますが、音楽家が思考できる部分は、音楽が結果として持つ要素のほんの一部なのです。

とりあえずこんなところでやめておきます。


まとまりのない文章ですいません。
読みにくいかもしれません。
まとめようとすると嘘が出てきてしまうので、考えていることを適当に書いてみました。
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