2018年5月15日
Lamp 8thアルバム『彼女の時計』リリース



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音楽レーベルBotanical House



生い立ちからバンド結成、
そして現在までの経緯。


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ちょうどよいモノの大きさ
携帯電話やパソコンのマウスなど現代的な機器の大きさは、はじめどんどん小さく軽くという方向に進むけど、やはり人間が手で持ったり目で見たりするものだから、ちょうどいい大きさというものが大体決まっていて(「小さく軽く」には、受容する側の限界があって)、次々と開発される商品の大きさも時期が来れば人間にちょうど合うような大きさに落ち着いていきますね。


例えば、テープやCDを早送りするように、5分の曲を1分とか30秒とかに早回ししたような音楽を作ってもおそらく誰の心も動かせません。
展開に脳の処理が追いつけないと駄目なんだと思う。

今の曲は大体3分から5分くらいのものが多いと思いますが、偶然3分〜5分になったのではなく、そうなった必然性があると思う。
コードの変わり方の早さなんかもヒトの脳の処理に大きく関係するんだと思う。

そんな風に考えていくと、ヒトが、ある響きを捉えてからそれに満足する(飽きる)時間は、1秒弱から、まあ多くて3秒くらいでしょうか。
| about music | 02:16 | - | - |
音楽表現の素晴らしさを感じて
ビートルズからもうすぐ50年。
「音楽」を作るという限界の壁が見え始め徐々に大きくなってきている。
ものすごく高い壁が立ちはだかっている。
僕らの時代は、そんな時代。
学生の頃にそんな風に感じたものですが、今も変わらずそう思います。
もっと以前からそういう状況だったという説もあるでしょう。

本当の「音楽」を作る。
その壁があまりにも高くなりすぎてしまったので、多くの人たちは別の道から迂回しようとしている。
本当に音楽と向き合うことはしていない。
それを僕は「音楽」とは呼びたくはない。

その壁を越えることが出来ずに諦めていたり、開き直っていたり、そもそも気づいていない音楽家とその音楽が優に9割を超える。
そんな音楽ばかりがラジオなどから次々と聞こえる。

本当の音楽。
そんなものはないけど、でも、「ない」って言ってしまっては何もかもお終い。

あるとすればどんな音楽か。
これが本当の音楽。
時代が希求するもの。

僕は、それを感じる限り、続けられると思う。

僕らの世界は、この思考をも内包している。
考えれば、望めば、実現しないことではない。
理想はこの精神の中にあるだけで意味をなすかもしれない。

僕の感じる「音楽」、それは僕にとって「音楽の総て」。

時代に求められた形をここに実現します。
永井と香保里さんと共に、素晴らしいものをお見せしたいと思います。
| about music | 02:46 | - | - |
良い音楽を
今日、たまたま本屋さんで矢野顕子さんと大貫妙子さんの対談を読みました。

その中で、良い音楽ってみんな60年代〜80年代中盤の頃のものばかりなのよね(時期とか言い方とか、ちょっとずれているかも)、みたいな事を話されていました。

僕も、同感なんです。

今、全く良い音楽がないとは言いませんが、昔に比べるとすごく少ないと思う。

で、今の若い人に才能がないとか昔の人はあったとか、そういう話はちょっと違うと思うんです。

これだけ音楽をやっている人が多いなかで、いい音楽が出てこない要因は、かなりの割合で環境のせいだと思うんです。

簡単にまとめて言ってしまえば、「音楽を作る現場の人間が音楽を一番大切に考えて作っていない!」ということなんです。「じゃあなにを優先的に音楽を作っているのか?」、それはもう皆さんお分かりだと思います。富、名声。
それを得るための音楽ばかり。
そしてそういうものを許している(許さざるを得ない?)多くのリスナーたち、というこの状況。

音楽に関わる人間たちの気持ちの問題、それが悪い環境を作っているわけです。

才能を受け容れる土壌がなければ注ぎ込むものも注ぎ込めないというものです。


で、昔は、そういう音楽以外のものが音楽に絡んでいなかったかというとそんなことはないと思うんです。みんなレコードを売るために頑張っていたと思うんです。
でも、その考え方の基本は「いいレコード(音楽)を作れば、みんな買ってくれるだろう」という発想だったと思うんです。
それ以外のことはとりあえず二の次だったんではないでしょうか。

カエターノの「Sorte」とか「Voce E Linda」とか、ポップだけどすごく良いよ。痛々しくも毒々しくもない。本当に僕の気持ちの中に入ってくる感じ。
| about music | 01:03 | - | - |
「新しさ」という虚構の中へ
気になるあの娘にあげるミックステープのようなアルバム。
30才になっても40才になっても聴けるようなアルバム。
ずっと繰り返し聴き続けても聴き飽きないアルバム(聴けば聴くほど良さが増していくアルバム)。
それらはどんなものなのか。
今まさに自分が感じる「良さ」こそが最も新鮮であり、唯一信じられる感覚。
(表面上の新しさは時間の経過とともに埋没していくでしょう。)

新しさ。
これを追求することは、時代の先を求めることではけしてない。
新しさとは、自分が自分でいようとする力が生み出すものだと思う。

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たまに「目的」とか「目標」を気にしている人がいます。

ひとは目的や目標を持つことで生きることがだいぶ楽になります。
「生きる理由付け」ですね。

それが良い・悪いではなく。

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ジョン・レノンはビートルズ時代からずっと軸がぶれることなく音楽をやっているように思います。
ジョン・レノンが感じる良い音楽。
彼の音楽はいつでもはっきりと自分の視点から曲が作られている。
その軸がはっきりしている故、どんなことをやっても馴染みやすいんですね。

僕らは実際どんどん作っている曲が難しくなっていっている。
そういう中で、軸がぶれないということにより注意を払っていく必要があるように思うのです。
さらに、僕らがジョン・レノンや他の誰かと同じ軸で音楽を作っていっても意味がないのですね。
自分が良いと感じるもの、感じていたもの、その両方に注意を払う必要があります。
| about music | 02:30 | - | - |
感じ、そして、取り込む
何かを創作するにあたって一番重要なことは「感じる」ことだと思う。
まず、「感じる」。
この出発点がなければ何も始まらない。
しかし、それは何にも難しいことではない。
音楽なら、ただ聴けば良い。
これは、音楽は作らないで聴くだけの人と同じ構えでいること。それだけです。

続けて、何かを創作するにあたって重要なこと。
それは、その自分が良いと思ったものをいかに自分の中に「取り込む」か、だと思う。
漫画でも映画でも音楽でも文章でも何でも良いが、
なにか作ろうと良いものを盗もうとしたときには、必ずその作品を自分の中に何かしらの形で取り込むことになる。
これは避けられない。
このことと、上で書いた「感じる」ということとで何が違うか。
「取り込む」というのは、作品を物理的に捉えるということである。
何かを作り出すことは、精神的なことのように思えるが、非常に物理的なことであると思う。
そこには良い物を捉え盗む技術が必要なのである。
物事の原因と結果を物理的に捉えることが創作家の第一歩だとは。
創作の基本は盗むことだという事。
これはとても興味深いことだと思う。

盗む、盗む、とずいぶん物騒なことを書いたが、これは言葉の問題である。

要は、自分が「良い」と感じた原因の究明である。
これを道筋だって考えることが出来ないといつまでたっても良いものが生まれない。

そして、この事は非常に当たり前のようであり、現代の創作の現場において、遥か彼方に忘却されていることでもある。と僕は感じる。

自分が感じた「良い」を自分で究明する努力を怠ると、せっかくのその感覚が「時間」と「慣れ」という魔物に奪われてしまうのである。
自分ではどうしても原因がわからない時もあると思う。そういう時は色々なものの助けを借りることも必要だと思う。

とにかく今の音楽は皆似ているし、あまりにも文化に対する挑戦がなさ過ぎる。
僕等は古いスタイルの模倣で、新しさがないと思われたりするけど、本当にそうだろうか。と逆に聞きたい。
表面的なわかりやすいものだけに反応しているようだと、この先良い音楽はいっそう世の中に出にくくなると思う。
たかが4分前後の時間のために、かなりの長い年月をかけて作るのだから、そこには色んなアイディアや仕掛けを入れてやりたいものだけど。

しかしまあ「新しさ」だとか、ここに書いたことだとか、音楽批評と言うものは、言ってしまえば全て言葉の問題であって、僕も僕で自分たちをどんなに正当化しても仕方がないのだけれど。
音楽を作り、皆さん一人一人に耳で感じてもらうしかないのです。

いつも中途半端な文を読んでくださっている方々、ありがとうございます。
| about music | 00:06 | - | - |
表現の場として
このブログには色々なことを書いていますが、時々、少々刺激的な内容で人によっては読んでいて不快になるような文章も書いています。ごめんなさい。

そういう時も、こういうことを書いたら不快に思う人がいるということも僕はわかっているつもりでいます。まあそれでも夜中に書くことが多く、ちょっと興奮気味かもしれませんね。


音楽活動を続けたいとか、自分たちの音楽を少しでも多くの人に聴いてもらいたいという事から考えると、読んだ人が不快になるような文章を書くことはけしてプラスではありません。しかし、一度きりの人生の中で、自分が思っていたり考えていたりすることを「表現」していく必要性を最近特に感じています。

表現活動を継続するという事が人気商売的な側面を持っていることは充分承知です。しかし、それ以上に最近はその「表現」自体の在り方や自分という存在の意義などについて以前より強く色々と感じるようになりました。


僕は、このLampというバンドを始めたときの根本的な考えとして、音楽という表現手段のみ浮かび上がらせて、あとの表現は削れるだけ削ったものにしようと考えていました。

その考えが一番顕著に現れているのが『そよ風アパートメント201』だと思います。
あれは、音楽以外のあらゆる情報を削ぎ落とし、しかも音楽の中でも自分たちの一番表現したい「(音の)景色の移り変わり」と「言葉(歌詞)」との組み合わせから作られる世界、そこだけを表現したくて(受け手に感じてほしくて)、それ以外をわざと消したという意図がありました(意図した通りの結果になっているかはわかりませんが)。ですから、あのアルバムには、例えばリズムのフェイクは一切ありませんし、引っかかるような言葉の表現は一切入れなかったつもりでした。全てが淡々としています。
3rdのインタビューでも言った「表現しない表現」というのも、1stが一番実践できていたような気もします。

最近はその頃とは少し考え方が変わって、例えば、このブログのような場も、僕にとっては、一つの「言語表現」の場であるということを意識するようになりました。
以前、ビーチ・ボーイズの『スマイリー・スマイル』について書いたとき「作品が結果のみで判断されるべきかどうか」ということについて少し書きましたが、本来ならば作品はその作品(結果)のみで受け手に判断されるべきであると思うのですが(これが理想ですが)、現状を考えると、作品とその作品に関するあらゆる情報とを完全に遮断することは不可能であり、例えば、新たなリスナーの方々に次のLampの作品を作品のみで触れてもらうっていうことは不可能でして、誰もがどこかで何かしらのLampに関する情報(やれシティーポップスだ、やれボサノヴァだ、誰々が良いって言っていたなどの、言ってみれば先入観)を持って、僕らのCDを買いにいくわけでして、そのミュージシャン(←)やCDの存在を知るには、情報が不可欠となるわけです。情報は多くの場合その作品に対する先入観を生みます。
そう考えたときに、作品が作品のみで触れてもらうことは出来ない(つまり作られるその過程などの情報等も作品の一部である)と考えるしかないのかなぁと思っているんです。ある意味、開き直りですよね。
依然として、どこからどこまでが作品かという問題の答えが出ていませんが、今は仮の状態でこういう結論を導き出しています。

また、今までのように音楽のみが作品であり、そこが自分たちの唯一の表現の場である(だから、受け手には音楽だけで判断してほしい)という考え方も一つあるけど、例えば、ジャケット、映像、文章などを含めた「表現の場」をもっと広く見ても良いかなぁと思うようになってきたということがあるんです。

こう考えたからといって、自分たちに関する情報を誇張したり操作するようなことをしようというのではなくて、この「こぬか雨はコーヒーカップの中へ」をその情報発信の場の一つとして、音楽による表現と同じように、自分が表現したいことを表現していこうと考えるようになったのです(といっても、このブログ自体を読んでいてくれている人自体が少ないですけど)。


先日、他人に自分が「ミュージシャン」であると言うことに抵抗があるとこのブログに書きましたが、少し付け加えます。
たしかに僕は音楽をやってはいます。
が、もし僕が「ミュージシャン宣言」をしてしまうと、そこに作らなければいけない義務みたいなものが発生してしまう気がするんです。
どういうことかというと、本来ならば「作りたいものがあってはじめて作る」とか「表現したいことがあってはじめて表現する」というのが自然な行為のはずなのに、それでは本末転倒してしまうなぁと思ったのです。

さらに言えば、音楽は、自分の中での得意分野であって、表現手段の一つである「だけ」だなぁとも考えるようになりました。だからといって、具体的に何をやっていくという事は今のところはないのですが、あまり考えを狭めないようにやって行きたいものです。


そうそう、あと今日は渋谷のNHK放送センターに行って、以前記事にした「夢の島少女」を全部観てきました。ものすごく良かったです!
以前の記事、良かったら読んでみてくださいね。

万人に良いと思われる作品は、得てして平均化されたものであって、それが悪いものだとは言わないけれど、やはり「夢の島少女」の佐々木昭一郎監督じゃありませんが、『「一億人のうちの十分の一くらいのひと」、つまり一千万人くらいの人は理解してくれる』ような作品が作れれば良いのではないかと思うわけです。
| about music | 03:42 | - | - |
ミュージシャンって?
「あなたは音楽をやっていますか?」と言われたら、

「はい、やっていることもあります。」

と答えますが、

「あなたはミュージシャンですか?」という問いに対して、

「はい、ミュージシャンです。」

と答えることにとても抵抗を感じます。

それは「ミュージシャンであることの恥ずかしさ」みたいなものかもしれません。もしくは「自分は(他とは)違うんだ」という差別化を図ろうとする意識から来るものなのかもしれません。

なんか「ミュージシャン」ってこの上なく恥ずかしい人種じゃないですか?そんなことないですかね。自意識過剰なだけですか。

人間誰でも、それが無意識的にしろ、自分のエゴを増大させるために行動するわけですが(というか自分本位でしか行動できない生き物ですが)「ミュージシャン」という人種はあからさまにそのエゴが出ているなぁと思いますね。それ自体を僕は悪であるとは感じていなくて、そういう部分を美化する行為こそ悪であると感じてしまうわけです。

自分の中の矛盾とどう向き合うか。
どう表現していくか。
自分の話しになりますが、これは人生のテーマであり、音楽などを通して、こういうことに挑んでいきたいなぁと思っています。


「ミュージシャンはこうではなくてはいけない。」
とか、
「ライブというものはこうやらなくてはいけない。」
というような凝り固まった考えを他人に強要したり、そういった観念を疑いもせずその通りに行動をする人が僕はどうも苦手です。
そして、言い方や言葉の意味の問題にもなってしまいますが、僕は自分が「ミュージシャン」であると何の疑いもなく言えてしまう人がどうも苦手なんです。
そういう人を見ると、同じ音楽をやっている人でも「ああ、フィールド(という言い方が的確かどうかはわかりませんが)が違うなぁ」と勝手に思ったりしてしまいます。そう思うことで自分を納得させている部分もあります。

ですから、自分が「ミュージシャンです」と言ってしまうと「軽蔑されてしまうのではないか」という不安が頭を過ぎるのです。

いつからミュージシャンで、どうなればミュージシャンなのでしょうか。

まあもちろんそう考えるのは人それぞれの自由なわけですが、自分は、例え結果的にそういう「答え」や「行動」に行き着くにしても、一先ず足を止めて考えたいですね。
こういうことを言うと、「それくらい皆考えているよ」と言われたりするのですけど。

僕は音楽による収入で生活をしていないという意味でミュージシャンではないとされるのかもしれませんが、僕が言いたいのはそういうことではないんです。わかっていただけますか。



話しは変わりますが、僕がいつも疑問に感じるのは「ライブ」についてです。

お客さんはお金で何を買ったのでしょうか。
僕らはそこでお金を払って見に来てもらったお客さんに何を提供する義務があるのでしょうか。
怒っているわけではなく、本当にここがわからないんです!
(法律的に、最低限やらなければいけないことがあって、それをしないと裁判で負けてしまうようなことがあるはずですよね。法律は、守らなければ罰せられてしまいますが、まず個人の考えやそれに基づく行為があっての法なわけですから、個人の考えを先に表明していきましょう。)

姿を見せればいいのでしょうか。
演奏をすればいいのでしょうか。
演奏のクオリティはどこまで求められるのでしょうか。
会場を盛り上げることは求められるのでしょうか。
何か話さなければならないのでしょうか。

僕は、基本的には、出演者の考えをそこに出すことが出来れば、それで良いと思っています。けしてお客さんは物やサービスを買ったわけではないような気がします。
例えば、私は音楽のみ提供します。
例えば、私は歌う以外にもパフォーマンスや大道芸をします。
例えば、私は気が向いたら歌います。
例えば、私は何もしません。(という人がいても、僕は良いと思います。自分がそうしようというわけではなく。)
出演者の考えが表れるのがライブですよね。

僕がこういうことをここに書いたのも、今一度、ライブを主催する人、出演する人、見に来る人、皆がライブというものの固定観念を取っ払って見つめ直してほしいという思いからです。

ライブで盛り上がって最高だったらそれでいいでしょう。他人の考えや行為に文句をつけるつもりは全くありません。
あくまで、ここに書いていることは、僕が発してただ僕にのみ帰結する独り言のようなものです。
でも、全てのライブに同じものを求めるんですか。
そうですか。
もっと別の視点から捉えてみたらどうでしょうか。
(壁に向かって呟くイメージで)一つの提案です。強要はしません。

僕のMCが途中で止まったり、尻切れ気味なのも、こういうことを感じてきたからかもしれません。ごめんなさい。
ああいう場で何を言っていいのか、わからなくなるんですね。
「ああ、俺何言っているんだろう。ここが何なのかわからない」って。


今後はもっと、僕たちなりに考えて、次も聴きに来たくなるようなライブを提供出来たらなぁと思います。

ライブという名の何かを。
| about music | 01:46 | - | - |
理想郷
(僕の50枚に入れた)カエターノ・ヴェローゾとガル・コスタの『ドミンゴ』というアルバムがあるのですが、このアルバムを聴いている時、僕はこのアルバムが持つ世界に入った気になります。
こういうアルバムって本当に貴重ですよね。

僕は最近素晴らしい一枚に出会ったのですが、とある事情でそのアルバム名をまだ明かせません。
そのアルバムもやはり『ドミンゴ』のように、一つの世界を持っているのです。


『Domingo』裏ジャケ


なぜ世の中にこういった一つの世界観で統一されているように感じることの出来るアルバムが少ないのでしょうか。

その理由は、そういったアルバムは大抵は理解されずにマニアックなものとして受けとられてしまうからだと思います。
多くの人が耳を傾けるような世紀の名盤になる可能性もありますが、それは本当にごく稀だと思います。
ミュージシャンにとって、売れる売れないというのは当たり前に死活問題ですので、そういった作品を作りたくてもなかなか作ることが出来ないわけです。勇気がないのです。

一リスナーとして述べさせてもらうなら、バラエティーに富んだ作品より、一つの雰囲気で統一された作品を多く聴きたいです。
最近のアルバムは前者がとても多くて残念なんですね。

作品に一つの理想郷を求めます。
| about music | 22:54 | - | - |
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